雑記帳 back number
2010

2010年11月21日

僕は一つの砂時計を思い浮かべる

その中央のくびれた部分が僕なのだ。

そこを通って無数の砂粒が音もなく上から下に流れ落ちてゆく。

砂は僕のファミリーなのだ。

 

2010年11月11日

近く僕の家族が集まって僕の八十八のお祝いをしてくれる。
もともと僕の父は一人っ子で、母も弟と妹がひとりづついたばかりだから結果的に集まってくれる人数もそんなに多くはないけれども、それにしても子供、孫、ヒ孫、それに甥や姪までいろいろで今の世の中いそがしい中、それぞれ都合をつけてきてくれるのだから、まっことめでたい。

先月父母の郷里に帰省した折、何年かぶりにお墓参りをしてきた。ここには僕の祖先が代々眠っているお墓の群が新バカ、古バカといって二ヶ所もあって、普通新しい方しかお参りしないのだけれども、その中でも僕の知る範囲は祖父母までである。
墓所は町を見おろす岡の上にあって風が強いから昔から線香に火をつけるのに苦労する。

八十八年前 僕が生まれた時に、今度集まってくれる人たちはひとりもこの世にいなかった。存在しない点では今僕の周囲には両親も兄弟もつれあいすらも一人もいない。
僕は今ひ孫の顔も祖父祖母の顔もそれぞれ具体的に思い浮べることができるのだ。

やっぱり奇跡だよ。これは。



2010年10月18日

パリの個展は昨日終わった。
僕は10月1日(初日)から一週間目に帰国したので、その後のことが気にかかっていた。終わった日に電話があって会がまず成功だったことを知って嬉しかった。
初日のベルニサージ(招待日)は大勢の人で賑わったけれども僕のいる間はさっぱり人が来なくてがっかりしていたのが、その後次第に増えて、しかもそれぞれ長時間熱心に見てくれて、この会のために用意したビデオにも床に座り込む人もいたという。これは出し遅れた案内状が効いてきたこと、前回、前々回からのリピーター、一度来た人が友人を誘ってまたきてくれたこと。それから不思議なことに口コミによるもの等、一寸日本では考えられない現象だったという。今パリは最低の不況ださうで作品は一点も売れなかったけれども、個展を三回続けた甲斐があったと思った。勿論反省点もあり、これからの方向もはっきりしてきたから、これで終わりということはない。とにかくスタッフはじめ大勢の人々の協力、応援に深く感謝しています。



2010年10月17日

今日は僕の誕生日。
たまたま孫の夫の両親がアメリカから遊びに来ていて娘の家でその歓迎会も兼ねてお祝いの会をしてくれた。日米の家族、大小老若男女とり混ぜてハッピーバースデーの大合唱。手作りのケーキ。こんな盛大なパーティをして貰うなんて長生きはするもんだと思った。


 

2010年9月27日

パリ展は毎年開いていて、これで三回目。ギャラリーヨーロッパという画廊は美術学校にも近く、画廊が軒を連ねていて、アートを好きな人達の散歩道になっています。
近くにはカフェパレットというカフェの常連だった画家たちのパレットが壁に飾られた古いカフェもあります。
会も三回目となると、これが正念場でほんものか、まがいものか決まるので正直一寸こわいです。しかし沢山の人達が待っていてくれるのでとても楽しみです。


2010年9月22日

老人の行方不明がニュースに出てる。超高齢者ばかりで、いつの間にか社会の置いてきぼりになってしまうのだ。そこ迄いかなくても、これ程長生きすることは昔はなかったから、こんなに肉体だけが元気で生きている人が沢山でてくるとは思いもよらなかった。これは決して他人ごとではないので、そのつもりでいなければいけないのだろう。

80ぐらいの人が今どんなことを考えたり思ったりして日を過ごしているのだろう。皆いそがしくてそんなことどうでもいいかもしれないけれども老人のつぶやきを書き残しておくと後々面白く読める時があるかもしれない。この雑記帖は孫に催促されて書いています。


2010年9月14日

晩夏 初秋 この季節はほんの数日かもしれないけれども一年で貴重な時間だと思う。

 

2010年9月7日

9月7日〜20日 渋谷区松涛のギャラリーTOM(tel:03-3467-8120)で 柚木沙弥郎2010展があります。これはパリで10月にする同名の個展の国内版ですが、違うのは陳列をデザイナーの鹿目尚志さんにお願いしている点です。布である作品をどう扱うか、試行錯誤した結果の一つの答えだと思います。浜田能生さんのガラス器も爽やかです。



2010年9月6日

この夏の暑さは何時おさまるのだろう。
台風の去った翌日、すき透った湧き水のような朝の光が私の部屋に入ってきた。
おはよう、もっと早くきたかったけれども、こられなくってね。
九月になればって言ってたよね。
こんな日が早くきて欲しい。



2010年8月24日

姪が母親から晩年、懐中時計を貰ったのださうだ。その話は初めて聞いた。
そのとき、母親はこの時計はお父さんのパリみやげで今は動かなくなっているけれども、あとで修理して使って、と言われたという。
そこで最近、彼女の近所の小さな時計屋に持って行ったら、箱に1915と書いてあるし、時計屋は珍しがって、ねじを巻いたらすぐ動き出した。中をあけたらいっぺんも修理されていなくて、ピカピカのまま貴婦人の体中を見るようだと驚いたのださうだ。ともかく今は水平にしているから動くけれども、様子を見ませうといって預けてあると姪は言っていた。

僕は母がこの時計を持っていたことをよく覚えている。外出の度ごとにタンスの一番上の引き出しに出し入れしていたから。時計は一寸小ぶりの婦人用で、周囲に唐草模様がついていた。金ではないけれども、金色をしていたと思う。とにかく母親の外出の時は、子どもの頃の僕はその一部始終を見物していたものだ。
この時計に限らず、それっきり思い出す機会のないまま僕の人生の中で忘れ去ったものが沢山あるに違いない。




2010年8月11日

先日、定期が満期になったから来てくれと銀行が言ってきた。同じ方向だけれども、夏でこの頃混んでいるプールは不用心だから中止して、銀行にゆく。出かける前に電話をしたら、前の人とは別の人で、継続ならば印鑑は要りませんと云うので、決められた時間に行ったらば、何とかを続行するのに印鑑が要りますという。
この前は別の銀行で本人を証明するものを持って来てほしいということがあった。近いとはいえ、行ったり来たり何度もこの暑いのに銀行なんかに行きたいとは思わない。ハナガミばかりくれなくてもいいから。



2010年7月31日

僕の家の前の道は坂になっていて、登りの一方通行だけど、広い道から広い道に出る細い道で、信号がないから便利なので車の量がすごく多い。
わずかばかりの距離なのに、わざわざ入ってくるのだから入り口に迂回するような進入路をつくって車のスピードがそこでいったん出せないようにしてある。しかし、そこを通過するとヤレヤレとばかり僕の家の前ぐらいからブーとスピードをあげる。「お宅の前をよく通るよ。」と人は言う。しかしここを歩かなければならない老人には難所です。

先日、例の迂回するところでスピードを落とした緑色の車の中から「こんにちわ」と手を振る人がいるので、びっくりしたら、娘たちの家を最近改造してくれた建築家のKさんだった。夕方のラッシュ時なので、すぐ後ろに車が並んでいるのだから、我々はよろこびを交換するひまもない。



2010年7月23日

梅雨が明けたら俄然暑くなった。
公園のジーと鳴く蝉は少し前から鳴き始めていたが、ヒグラシが夕暮れの林の中ですきとおった声であっちでもこっちでも鳴いているのにびっくりした。
これが夏だ!



2010年7月20日

梅雨明け三日というがこの炎天下の日射しはただものではない。
西日の当る台所で夕食の支度をしていた妻が アツヤ アツヤ と言ったという 。
さう言えば長女は家族の昔のことをよく覚えていて時々 僕を驚かす。



2010年7月12日

このところもの忘れがひどくて、あっち向いてこっち向くと今自分が何をしようとしていたのか忘れて思い出せない。Nが来たのでそのことを話すと彼は僕より大分若いけれども、「当たり前ですよ、僕なんかも何か二階に取りに来て、何をしに来たのか忘れて階段の一番下の段から上り直すんですから。お互いににわとりみたいですね。」と嬉しそうだ。Nが帰ってから面白いことを聞くもんだ、とさっきのにわとりのことを考える。成程にわとりが子細あり気に頭をふるのは忘れものを思い出さうとしているのかしら或いはさうかもね。どうだかね?

 

2010年7月3日

孫の兄妹が今のうちに祖父母の古い家をみておきたいというので、興味シンシン新幹線に乗って出かけていった。

祖母(僕の義理の姉)の生家は、昔は広々した田園に囲まれた美しい村落に立っていたのだが、現在はまわり中、駐車場や今風な民家に変わり果てている。姉は大きな家に独りで元気に暮らしているから感心だ。ところで何と姉は二人に蔵につれて行って、祖先が使っていた輿を見せたさうだ。彼らは教科書やドラマでしか知らないそんな乗り物が現実にしまってあるので、仰天したらしい。ハハハ。

一方、玉島の僕の兄の家は現在は市が管理していて甥がそばに住んでいる。彼はわざわざやって来た二人に大サービスして玉島の地名の元だという二つのつるつるした玉石を出して来て見せたらしい。僕も子供のころ、天神祭だったか特別の日に床の間に飾ってあるのを見た記憶がある。町内の人はこの石のことをユノキのアンゴー玉と呼んでいるさうだ。アンゴーとはアンポンタン、アホーという意味だ。でも甥はそれを知っていたかどうか。ハハハ。


2010年6月21日

レストランでもカフェでもいい、できれば一階、階上でも我慢するけど高層ビルはつまらない。自然光が入るところ、これが一番大切なのだ。次になるべく席の間隔がゆっくりしていて隣同士の話し声が届きにくいこと。それから音楽は不要、あってもごく静か、ウエイターはひまの間お互いの雑談は気になるからしないで欲しい。そんな店で長居しても追出されないところ。それじゃー商売にならないかもね。


2010年6月18日

先日西洋古道具屋に連れて行って貰った。ここは蚤の市のように家具や何かの片割れみたいな物体が狭い店内に足の踏み場もない有様だ。その中に白い布片が何枚も重なっているのが目に止まった。夫々まちまちの大きさだけれども大体作りが揃っている。つまり赤糸で井げたの模様が織り込まれている片隅にアルファベットのイニシャルが刺繍されている。四角の一角に輪がいく分大きめにしっかり出来ていて、用のないときは何処か所定のとこへ吊るしておくのだろう。しっかり分厚く出来ていて頼もしく健康な感じがした。昔父が朝食の後、ひざにかけた白いナフキンを手のひらをさじの様にしてパン粉を集めてポンポンとやっていたのを思い出した。
いいなー。


2010年6月13日

姪がやってきて台所の流しとかガス台(うちはIHだから何っていうのか)それから冷蔵庫をすっかり掃除してくれた。
その前来た翌日電話をしてきて「昨日の今日じゃ一寸早すぎるから今週の土曜はどうかしら。そのへんそのまんまにしといてね。」と言っていた。よごれ具合が掃除のし甲斐があるらしく今すぐにも飛んで来そうな勢いだった。

驚いた。僕の見たこともない掃除のための小道具を取り揃えて現れた。○○ちゃんがパティシエの修行にフランス時代使ったという胸に金の紋章の入った黒のエプロン(裾を半分くらい上に返して)先ずいでたちにびっくりする。
いろんな便利なもんがあるんだナー。ネチネチした油汚れを拭き取るのや乾かない不潔できたないスポンジに代るもの、サラサラの厚くて頼り甲斐のあるふきん等等。厭でしょーがないあと片付けがこれで一挙解決!いろんなものをいろんなところにぶら下げるSカンまでもネー。

正味三時間足らずでその辺鍋の蓋までお見それするぐらいピカピカしている。冷蔵庫の中なぞ当分手が出ない程きちんとなっていてよそのレーゾーコのよう。
「又くるわねー」と言って帰って行った。

姪はこのところ続いて介護の必要な家族をなくしている。うちに帰ったら「まだもう一人いたじゃない」と言われたさうだ。

 

2010年6月11日

先日病院のリハビリに久しぶりに行ったら、僕のかいた小さなポスターが受付に出ていて驚いた。三年前病気した時、ここでリハビリのぬり絵をかいたついでに色鉛筆でかいたものだ。「みんな励まされています。」と。僕の方こそ大いに励まされました。

 

2010年6月10日

夕方我ながら上手にできたホーレン草のおしたし(ゆで加減が丁度良かったというだけ)を舩木倭帆さんのガラス小鉢に盛る。涼しさうでたい満足。「普段着のガラス」という舩木さんも本望だと思う。



2010年6月9日

この冬から版画工房に通っている。工房の主はレスラーのような大きな人で声も大きいから工房が小さく感じる。私は何度聞いても銅版画のそれぞれの呼び方や技法が頭に入らないけれども、彼は面倒がらずに説明してくれるので恐縮している。大きな手のひらで銅版の表面に黒いインクを塗りつけたり、拭き取ったり、その手をエプロンにこすりつけたり仕事はダイナミックにデリケートに進行してゆく。

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