講演「民藝と私」

2003年8月22日民藝夏期学校より

6.インド 布の生涯

 インドについてお話したいと思います。ここに展示してあるものは岩立広子さんという人が1970年前後にインドから持って帰ったインドの村の人たちの作ったもので、非常に私にとってショックでありましたし、感銘が深かったものです。当時、インドについてまだそれほど旅行者もいなかったし、ガイドブックもなかった時代、岩立広子さんはインドに行って、そしていろんな布を持って帰ったんですけれど、それまでのインドの作品というのは、国立博物館にあるようなロイヤル・ファミリーの宮殿の細かい精緻な、非常に美しいことには間違いないのですが、そういう布は見たことがありましたけれど、岩立さんが持って来たような田舎の地方の村の人たちが作った布は始めて目にしました。その当時のものがこれです。

ターバン、一種の絞りでできた頭に巻く布
部屋の中にかけて装飾に使う、或いは天蓋として上にかけるアップリケの布
何でもいれられる袋、ガッサイ袋
ラジャスタンという北部の町の布
カルカッタのあるビハール州の刺し子の布

彼らはもっている布をうまく使う。一枚の布を砂塵よけに顔を覆ったり、食事のために下に敷いたり、赤ん坊を背負ったり、勿論寒い時は肩にかけたりします。使い方が自由なんです。

 日本人に限らず、世界の人がなんでインドに憧れるか。1970年代、ヒッピーが沢山インドに行っていた頃です。考えてみますと、日本及びいわゆる先進国、というとおこがましい感じがしますけれど、そういう文明国というか、そういうものとインドの違い、これは何であるか。どうして、日本人があるいは欧米人がインドに憧れるか、というと、つまりインドというのは精神を持ち続けている国、その他のいわゆる進んでると思われている国というのは物とお金を追い求めている国、そういう違いが大きいと思います。

 これはカーターという大統領がいまして、その顧問をしていたリフキンというアメリカの学者が「エントロピーと世界観」という本を出している。それにビックリして、自分が思ってたとおりのことを感じている人がいると感心した糸川英夫さんという人が書いた「第三の道、インドと日本とエントロピー」という本をソニー出版社から、昭和57年に出しています。この本は非常に面白い本で、もし機会があれば、ご覧になってください。エントロピーというのは、熱力学の言葉で、私は正確によくわかりませんので、その本を読んで頂きたいと思いますけれども、要するに石油がガソリンとして、動力として使われた場合にそれはエネルギーと、炭酸ガスだとかその他のいろんな物質に変わる。その総量と石油とは一定である。同じである。そういう点を基に文明国の文化が色々進んでいる。量は確かに同じであるけれども、有用、役に立つ部分というのは、石油の持っていた役に立つ部分と、その他のそれを使った後のエネルギーの物質との役に立つ部分とは明らかに差がある。段々段々、役に立つ部分がなくなっていってしまう。つまりエントロピーが増大するということをその時はじめて学者が警告しているのです。

  それが現代のいろいろな公害やその他の問題になって、環境問題に発展していくのですけれど、私はさっき柳悦孝先生の話をしましたが、この悦孝さんがよく言っていたことが2つあります。1つは地震の問題。これはもう、悦孝さんのお父様が柳宗悦先生のお兄さんなんですけれど、この方が房州で大正12年の震災でもって亡くなっているという、非常に痛切な記憶が悦孝さんにはあるんだと思いますけれど、地震を非常に心配して、女子美術という学校もこの杉並にあったら、いつかは潰れるであろうというようなことをしきりに言ってました。それからもう一つは、石油というものが今一滴あったら、こういうことが出来るはずなのに、それがないということを皆は想像しないじゃないかという警告です。で、教授会でそういう話をすると柳のまた話が始まった、と皆は下を向いてしまう。まあそういうふうに、親の話というのは、また始まったっていうような拒絶反応が誰にもあるんですが、そういう時代にもうすでに悦孝さんはそういうことを警告している。

 そして今のエントロピーの話ですけれど、同じ石油でもそういうふうに変わって役に立たないものになって、それをまた役に立つものにしようとするとまたさらにエントロピーが増大する。例えば1つの病院を作ってある人数の患者の命を救うとしたら、その病院を作るためにそれ以上の人数の人たちが犠牲になっているということを皆知らない。忘れてる。それは現代の文明なんです。そのために、建築資材のこともあるし、薬品のこともあるし、そういうもろもろのものを作るためにまた悪循環でもって、いろいろな石油その他の資源をなくしている。そしてそれによって食べる物がない人達も出てくる。そういうようなことを意識する、しないにかかわらず、インドと言う国がその逆の方向を維持している。それは精神を大事にする、つまり自然の環境を生かしている、そのままに保っている。

 その糸川さんの本の中にインドに旅行している時に、車の中に蜂が飛んできて、糸川氏が無意識のうちにその蜂を殺そうとしたら、一緒に乗っていたインドの学者が「やめなさい、あなたがこの蜂をたたけば、インドが蜂を失う。あなたは蜂に刺されて苦しむかもしれないけれど、時間が経てばまた元気になる。」すべてがそういうふう。いろんな話がそこに出てきて、面白いんですけれど、インド行ってご覧になるとよくわかるんですけれども、子供が実によく働く。リスが木を登るが如くマシラの如くに、そして非常に明るい。日本の子供は逆で、子供時代は勉強勉強で、そういう労働しないで済ましてしまう。インドはその逆で、労働しながら勉強するか、あるいは大きくなってから勉強する。糸川氏がある少年に「君は利口だから、中学高校に行くといいね」と言ったら「僕は大学に行く」というように、本当にそういうふうな非常に利口な子供たちが喜々として肉体労働をしている。こういうことは考えさせられる問題だと思いますけれども、昭和57年の本なのですが、又その後さらに、そういう国と我々の世界との差というものはもっともっと広がっているんじゃないかと思います。

 話は色々になってしまいましたが、私はその頃、見ていた本で藤原信也さんの「インド放浪」という本があります。これは、また違った意味でインドの魅力を考えさせられる本でした。これはその後も出版されているから、本屋で見られると思いますけれど、つまりバナラシというところに観光に行きますと、インドのもう命がなくなるような人が集まってきて、そこで火葬して川に流す。燃やす燃料が買えない人はそのままプカプカと川に流してしまっているところなんですけれど、そういう光景を色々描きながら、死というものを考える。まだ死と言うものが遠くにある、これからまだ自分のずっと先に死がある、あるいは考えない。そうではなくって、絶えず自分の身近に死というものがあるってことを考えさせられる。強いインパクトのある本でした。

 そんなこんなでもって、インドのことを思うんですけれど、この岩立広子さんはガイドブックやなんかがない時代にインドに行って、デリーとかボンベイ(ムンバイ)というような街でもって、直に売っている人たちの布に驚いて、その布がどこから出て来ているか、その産地、作っている人を訪ねて行って、色々紹介しています。駒場の民藝館でも展覧会をやったことがありますし、そういう意味で、非常にユニークな人なんです。こちらの刺繍もインドのものなんですけれど、クジャクのが太い糸でもって間隔を詰んで刺繍してある。もっと精緻な刺繍はいくらもありますけれど、私はこれの魅力というのは、そういう太い糸で針目をゆったり刺した刺繍、これは日本の桃山の刺繍なんかに通じる、糸の膨らみのもつ暖かさがあると思って、非常に好きなんですけれど、そういうものの材料がふんだんにあるわけではないんです。例えば、自分の家のお母さんの使い古したサリーの布をほどいてまた作るとか、そういうふうな循環をしていく。

 私がインドを旅行した時に、この旅行の時はパキスタンの方向に向かう砂漠地帯、砂漠といっても砂の砂漠ではなくて、もうぼやぼやした木があるような要するに不毛の土地なんですけれど、そこに行く時に、バンガローがあって、当時の政府の役人が見回りにくるようなところがちゃんとあるんですが、そうしたら私と一緒に二人で旅をしているパクさんという運転手がどこからか、布団を借りてきてくれる。その布団でもって寝るのですが、気温の高いところですから簡単なもので済むんですが、翌朝その布団をよく見ますと、裏にアップリケがしてあるんです。その布もまた使い古した布でもってやってあって、薄い布が何枚も何枚も重ねてあって、とても気持のいい暖かさと厚さ、手触りがある。そういう布は布が使われ使われて、ああいう状態になってそれでさらにそうなる。つまりそういうふうに使い捨てにしない布のあり方。これはもう非常に感動的だと思いますね。そして手仕事をやっている人たちがいる。

 山本耀司という服飾のデザイナーがいますけれど、この人が持ち主の体になじんだ服というものに自分は嫉妬を感じる、と言ったことがあります。そういう使い込んだ衣服の風合いといいますか、暖かさ、そういうものをインドに行くと直接に実感できる。そういうとこに私は一番、魅力を感じると思います。布の生涯、言い過ぎかもしれませんけれど、出来たところから、いよいよボロになってなくなってしまうまでの経過。私は自分の作品に、この2点を今日は持って参りましたけれど、そういう気分を私が非常に濃厚に感じていた時代に、布から浸み出るような模様を作りたい、何か付け加えるんじゃなくて、布から出てくるような、密着している、布を美しくするような、それでこの布を使う時に畳まれても、あるいは体にまとって、人の体と一緒に動いたり揺れたりしても、きれいに見える、そういうふうにお見えにならなければ、それまでなんですけれど。いろいろ作者の思い入れがあるもんで、独りよがりの話かもしれませんが。

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