講演「民藝と私」

2003年8月22日民藝夏期学校より

2.女子美時代〜 柳悦孝先生との思い出  

 昭和24年に女子美術大学に工芸科という科ができまして、服飾をやっていたところなんですが、もっと役に立つことをしたいということで、その当時の主事で園池さんという先生がいて、たぶん名前からしてお公家さん、つまり柳先生と同じ学習院の関係の出身の方で、柳先生からどうせやるなら、芹沢先生とか、自分の甥の柳悦孝という織物の人達でもって、やったら良かろうということになって、工芸科が昭和24年にできました。芹沢先生はもちろんそこで長くいるつもりがないんで、後釜という意味で私を呼んで下すったわけです。由比から帰って、倉敷で悶々としていた時に東京に来るようにと電報がきて、喜んでやってきて、昭和25年から女子美にごやっかいになることになったのです。

一番、始めに私がお話したいと思うのは、柳悦孝先生の話なんですが、この方は今年たぶん90才くらいになっておられると思うんですが、初めて女子美でお会いして、非常に親切にして下さったんです。その方は一口で言うと、非常に個性の強い、今までにこういう人に会ったことがないタイプの方で、つまり学校になじまない。まず第一に教えないんです。だからこの工芸科の諸々の事務的な世話をする昔からいる女性の先生が戸惑うのも無理がないことで、教えないと言ったって、どうして何もわからない生徒が教わりようがないではありませんか。なんか禅問答のような話ですけれども、だけど柳悦孝さんにすれば、教えてしまったら、人はその教わったことしかわからない。だから、ともかく何かやること。そしてやって、例えば織物であれば、真似事でも織ってみて「あーこういうものが出来た」という、物ができた喜び。それを感じればあとは自分でやるもんだという信念があるんです。

女子美の学生と柳悦孝先生と

ですから、経糸と緯糸が織物にはあるわけですが、経糸だけ先生が掛けて下すって、20人にも足りない学生でしたから、そういうことができたんですけれど、そしてともかく織らせる。そういう授業に目を輝かして、興奮したような人は非常に柳先生の計画したことが的中したわけなんです。興味を持たなかった人は、これは全くわからないというか、そこにいても縁がなかったというふうでした。

ともかく柳先生は入学試験にしても全くユニークな問題で、それは民藝館にある藁でこしらえた裁縫用の指貫、これはたぶん城之崎の温泉のお土産に作られたものなんですけれど、色どりが非常に美しい藁の指貫、それからヒントを得て、与えられた材料でもってこの棒を装飾しろ、というような問題でした。そしてその色糸の選択は自由。そうするとその最初の年の入学試験でできたものが、実にきれいで、どれもこれも本当に美しい。これは試験問題に向かないんじゃないかということで、他の科の先生達が「柳さん、これは一体どうやっていいのか、悪いのか決めるんだ」と言われて、「みんないいから、みんな合格」。当時学生が少なかったから、合格したんだと思いますが、そんなふうな入学試験なんです。

  柳先生が野党、つまり工芸科の主任の時代は非常に精彩のある先生の面目躍如の時代でした。ただ学部長だとか、学長になってからはどうもそういう場面が少なくなった気がします。まあそういうふうに攻撃精神があるし、正義感は強いし、潔癖であるし、そして独創的である。これは偏に柳先生は独学であったからだと思うんです。この独学についてはあとでまとめの時にお話します。

 私が非常に楽しかったのは、お昼休み。お弁当を広げて柳先生がいろんな話をされる、それが実に面白い話が多かった。まず第一に、屋根から落っこちる方法というのがあって、これは昔はよく布団を屋根に干して、その上にねそべっているうちに眠ってしまって、落っこちそうになる。そういう時にどうするかと言ったら、まず足を屋根から垂らす。そうすれば、足のスネの長さだけ地面に近くなる。それから落ちれば、それだけ衝撃も少ない。それと背中を下につけるとそれだけ面積が広いわけですから、滑り落ちるのに時間がかかる。

 私はこれを後世、実験する羽目になるんですが、大糸線というのが糸魚川に向かって松本から走っていて、進行方向向かって左側は白馬、右側が戸隠で、その戸隠の山の中に地元の中学校の先生の案内で、山菜を取りに行ったことがありました。この時は本郷大二さんと本郷孝文さんという織物の作家、それから亡くなった夏目有彦さんなどがご一緒でしたが、登るときはどんどん調子良く登ったんですけれど、その尾根を越えると、ゴム長に藁を結んで滑らないようにしていたんですけれども、そっちじゃないこっちだということになって、方向が違うと上を登っている人が言うもんだから、方向を変えようと思って、うっかり股の下を覗いたら、渓流が轟々と流れている。もうビックリ仰天、これは一貫の終わりと思いました。木の枝をつかむとポキポキポキと折れてしまう。もう本当に青くなってしまった。その時にふと、この柳さんの落ちる方法を思い出したわけで、これは本当に奇跡だと思ってます。つまり、山側に背中をして、それまでは山側に向かっていたわけですが、それを背中を山側にして滑るようにする、体の位置を変えただけで非常に安定して、これならなんとか助かりそうだとほっとした。そんなことがあって、これも柳先生の昼間の話の一つの教訓なんです。

 それから、夜行列車で安楽に過ごす方法というのがあって、それは昨日、京都に行ってきたんだけどという話から始まって、荷物を載せる棚から手ぬぐいをこうかけて、首をそこにのっける、つまり首吊りです。みんながジロジロ見たけど、楽だったと言ってました。それから、掃除兼用の冷え性退治のスリッパというのがありまして、これはお得意の織物でこしらえた平べったいスリッパなんですけど、周りに糸が出て毛が生えている、つまりそれで足を振り回すと掃除もできる、これはなんと楽なスリッパと。そんなふうなことをいろいろ話して、当時、「民藝」という雑誌をどうするこうするという話もあって、花森安治さんの「暮らしの手帖」のようなことをやたら面白いんじゃないかとか、これは発案だけで終わってしまいましたけれど、そういうユニークなことをいろいろ考えるのが好き。だから戦後間もなくの頃の物のない時代、役に立つ廃材がそこらに転がっている時代、これは、実に宝の山だし、悦孝先生にとって楽しい時代だったんじゃないかと思います。

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