講演「民藝と私」

2003年8月22日民藝夏期学校より

1. 生い立ち

 私は、1922年、大正11年に東京の田端、今は北区になっておりますが、当時は滝野川、そこで生れました。私の両親の出身は岡山県の玉島で、現在は新倉敷という駅名に変わっていますが、父は絵描きだったので私が生れた頃は東京に来ておりました。その当時、備後の出身のバーヤという老人が母について来ていたんですが、そのバーヤが私に絵本を逆さにして見せていたらしんです。どうもその人は字が読めなかったらしく、私は早くも抽象画の世界を知ったわけです。

  それから、幼年時代、小学校そのころまでは非常に体が弱くって、小学校なんかほとんど行かなかったんですが、少し上級になってくると体も段々、丈夫になってきました。 私は非常に雨の日が好きなんです。今はあまり好きではありませんが、子どもの時代から青年時代までなんとなく、なぜか雨の日は気持ちが落ちつくんですが、それは今思い出しますと、当時ガキ大将というのがいまして、そういう仲間と一緒に、当時まだ田端というとこには空き地や原っぱが沢山あって、そこで野球をやんなくてはならない。子供にしても浮世の義理があって、イヤイヤながら出るわけです。雨の日はそれを免れるわけで、非常に静かにうちにいられるのが楽しかった。そして兄弟が3人いまして、私が一番下なんですけれども、じゃあ、雨の日はどういうことをやったかというと、階段で上から下へ3人並んで、腰掛けて体を左右にゆするんです。そいで、「♪モン・パリー、我がパリー」と宝塚のまねをしたり、要するに軟弱な少年だったんです。

沙弥郎アルバムから    沙弥郎アルバムより大正15年

それでも絵を描いたりするのは大変好きでありまして、空き缶の中にクレヨンをガラガラといわして、どこに行くにもそれを持って行きました。そして小学校の上級くらいの時、満州事変という事件が起こったんですが、当時はラジオしかありませんが、そういう事件をラジオで聞きましたら、それを絵にして、明日学校に持っていって見せる。つまり、「爆弾三勇士」というような大変軍国少年にとっては、血の踊るような美談であります。そいうのをいち早く絵にして見せる。もちろんみんなは喜びます。
それから前の晩にラジオが落語をすると、今よりはるかに子どもの頃は記憶が良くって、「ジュゲム、ジュゲム、ごこうのすりきれ・・・・・・・・・・・・・・‥・・・・・・・・パイポパイポ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
だいぶシドロモドロで忘れてしまいましたけど、そういう話を学校でする、それもまた大うけだったんです。 それから、パテーベビーという小さな8ミリのフランス製の映写機がありまして、それでもっていろんな映画をする。それも人が集まってきてたいへん楽しい。
そんなことをしていますと、母がある時言ったんです。「沙弥郎よ、そんなに調子にのるな。」母の諭しというものはいつまでも心に残るもので、それ以来そういうことをやりたくなくなってしまいました。

 そんなふうにだんだん大きくなっていくんですけれど、昭和18年にご多分に漏れず、学徒動員ということがありまして、兵隊になりました。これは紙一重でもって私は命ながらえておりますけれど、いろんなことがありまして、昭和22年頃、早くも結婚してしまいましたもんですから、ともかく隣町の倉敷に大原美術館があり、そこに就職しました。当時の大原美術館というのは、お客さんが一人もいない日がいくらでもあって、雨の日なんか「本日も来館者0」って書く、そんな状態でした。  

  私はそういう用のない美術館でもって非常に好運に恵まれました。そこの館長は武内潔真さんという方で、電気工学の出身で、玉島の倉紡の工場長をしておられたのが、昭和5年に大原美術館ができて、館長になられた方です。そしてこの武内さんは非常な柳宗悦先生の崇拝者で、心から傾倒しておられ、柳先生や濱田先生、河井先生、バーナード・リーチさん、そういう方が倉敷にみえた時には、お宅にお泊めする、それが武内さんとご家族にとって至上の歓び、至福のときでした。非常に几帳面で、曲がったことが大嫌い、だから机の中もきちんと整理されているような方でした。この方の計らい、お許しを得て、この大原美術館に「工藝」という、雑誌と言っては勿体ない気がしますが、要するにその本自身が工藝であるような柳宗悦先生の説かれた民藝に関するたいへんいい写真の入った本が全巻ありまして、有り余る時間でもって読ませて頂いたわけです。

  この武内さんのお宅というのは倉敷の郊外の酒津というところにありまして、大原美術館の絵を収集した児島虎次郎さんという画家がいますが、その人のアトリエと住まいだったところです。その武内さんのお宅にある日、夕食に呼んで下さったんですけれども、武内さんのご家族がみんなでもって、非常に気持のいい暮らしかたといいますか、お座敷のしつらえから、テーブルの上の食器、食事まで、そういうものを楽しんでおられたのです。そういう工芸品を楽しむという観点は、それまで私には全然なかった。その時は全く工芸品や民芸品というようなものの知識はありません。「工藝」という雑誌をとおしてのみ、いろいろ面白いものがあることは、知っておりましたけれども、その実物が武内さんのお宅のお座敷に並んでいる。そして非常に気持のいい風のよく通るお座敷でもって、食事をいただいたんですけれども、濱田庄司さんの茶碗だとか、河井先生の茶碗だとか、そういうものを「今度はどれにする?私は濱田先生ので頂くわ」と家族の方がいろいろそういう作家の茶碗でもってお抹茶を食後にいただくんですが、そういう光景というのは、今まで私には全く経験しなかったことでした。私が一番驚いたのが、自分のうちの食器とここの食器が全く違うということです。それは、普通そういう食器がどういうものかという意識が全くそれまでなかったんですけれども、考えてみますと武内さんちのお宅の食器は陶器のものが多く、ずしりと手に重さというか、手ごたえというか、暖かさというか、それまで全く経験しないことでした。

  この武内さんのお宅というのは、さっきも言いましたけれど、武内さんご自身の性格で非常にきちんとしていらっしゃって、東の浅野長量、西の武内潔真というように当時言われていましした。浅野さんというのは、後で話にでますが、柳宗悦先生のお葬式を取り仕切られたお坊さんで、その方もきちんとした武内さんと同じような暮らしぶりでいらっしゃった。 武内さんのところがいかに、きちんとしているばかりでなく、心が隅々まで届いているかという有名なエピソードがあります。棟方志功さんが武内さんのお宅に泊まって、夜中にふともよおして目が覚めて、そうすると向こうの厠にパッと電気がつく。そういう装置になっているわけではないんですけれども、客間と厠が長い渡り廊下で離れていて、それくらい家族がお客さんに気を遣っているという話です。この武内さんの生活ぶりに、今までにない感銘を受けました。

 私は、とりあえず大原美術館に勤めたと申しましたけれど、この第二次世界大戦がいろいろな個人的にも大きなマイナスの要因になったということはもちろんなんですけれども、その1つに学業が中途になったということ、それは私個人にとっては、それほど大きなこととは考えられませんでした。どうも自分は学問というものに向いてないんじゃないかと前から考えていました。それよりも何か自分で実作をする、ものを作るほうに向ったほうが自分の素質がむいているような気がしていました。ですから、はっきりそう決めたわけではありませんが、何かそういうことを将来やりたいと思っている時でした。そういう時に工芸に世界が拓けたわけです。それは、私は武内さんのお陰だと思っています。そして、さっき申したように、武内さんは柳宗悦先生を非常に尊敬していらっしゃるし、そういう先生方が武内家によく泊まられたりして、みなさん親しい関係にあったわけで、武内さんを通して、柳宗悦先生を紹介して頂いたわけです。そして、何をやりたいかということになりまして、自分は絵が好きでしたから、絵に近い染織をしたいということで・・・

 その前に大原美術館に芹沢_介先生の1946年、つまり戦後第1年目のカレンダーがありまして、これを見たときに、面白いもんだなあと思いまして、それが染物であるとか、版画であるとか、そういうことは全然考えませんし、わかりませんでした。そしてそれを1年分、当時は頒布会のようにして、たぶん美術館に来てたんだと思いますが、それをわけて頂いて、今でも大事にしていおりますけれども。その作者が芹澤_介という先生で、それで柳先生が「それじゃ君は芹沢君のところにいきなさい」ということで、初めて芹沢先生のお宅を訪ねたわけです。

芹沢_介型染めカレンダー    芹沢_介型染めカレンダー

芹沢先生は当時青山に住んでらして、そのお宅にうかがって、染物のソの字も知らないで、ともかくこれから先生のところで勉強したいんだということを申しましたら、作家のところで君は勉強するよりも職人のところで勉強しろというお話で、芹沢先生は静岡のご出身なんで、静岡の染物屋の友達を介して、由比という町の正雪紺屋という染物屋を紹介して下さいました。ここに1年足らず、やっかいになったわけなんですが、由比というのは、今新幹線で通らないから、特に興味のない方はいらっしゃることはないと思いますが、東海道の五十三次の浮世絵の名所となっていて、今は鉄道から海岸まで離れたように工事してしまいましたけれど、当時は海までダラダラいけば、海水浴、手が触れられるような海岸でした。

  そこの染物屋の職人のうちに私はやっかいになったわけなんで、そのことは静岡の由比の染物屋にすれば、破天荒なことで、東京から学生上がりの若い男がなんで見習いに来るのか、非常に迷惑顔反面、興味津々というか不思議なことでした。この染物屋さんは、由比正雪という人が幕府の転覆の講談の主人公に出てきますけれども、その人の子孫だと自称しています。たぶん、本当だろうと思います。というのは、染物屋というのは伊勢型という型紙を持って、全国を自由に売りさばくことができる、そういうフリーパスを持っていたらしいんです。そういうことでもって、各地の政治情勢をスパイして歩くことができる立場にいたということです。

 それはともかくそれとして、当時の正雪紺屋の当主は吉岡宇吉さんといって、俵に手足のついたような典型的な日本人で、歯が全部金歯なんで、ニカっと笑うとピッカっとして、すごい元気のいい人で、お風呂からあがると体中、湯気がボウボウ出る。私はお風呂はいったって、湯気なんか出やしない。こういう人が一家を統率して立つ姿というのは、誠に見事というか、つまり職人という人たちの生活は、家業と家族の生活が一致している、これは驚きでありました。だから仕事を家中の人がしている、って感じで宇吉のかみさんも、嫁さんも息子の光吉さんも、なんらかの染物の仕事をする。つまり男2人はもちろん、女性の方もただ煮炊き、子供の育児ということ以外に染物の前後のしたく、後始末というようなことを全部やる。それで夕方になって、宇吉さんが仕事をすませて、街道筋に店と呼ばれているとこがあって、そこに藍甕が20本近くあったと思います、それをかいて、かくというのはかき回す。藍というのはご存知のとおり、かき回して酸素を中に混ぜ込むことによって、また藍の活動が活発になってくる、そういう成分があるんですけれども。そういうことをして、全部終わって食事になる。宇吉さんは一番先に台所から自分の定席に座ってしまって、それからみんなが食事を始めるんですが、嫁さんなんか子供を背中に背負って、立ったまま食べているような状態でした。

正雪紺屋2019年撮影 正雪紺屋の藍甕

 そんなふうで、私としては見るもの聞くもの、楽しいし、面白い。で、彼らはお客さんが来ると、みんなで話を始める。そうするともう仕事はそっちのけでもって話を家中の人がああでもない、こうでもないというような1日の流れが家族全体でもって流れていく。そして日が暮れて、食事をして、お風呂にはいってというような繰返し。なんの疑念も悩みもない。もちろん、あるんでしょうけれど、私にはわからない。またそういうふうに見える。一口で言うと明るい家庭でした。お茶の山もあるし、みかんもあるし、例の赤い海老が沢山とれるところですし、経済的には非常に豊かだったと思うんです。

仕事というのは、この辺は漁師町で船主が船を進水した時に旗を贈るという習慣がありまして、大漁旗というものをこしらえるのが主な仕事で、またその土地の結婚式、嫁入りがあれば鏡台かけを作ったりしていました。ともかくそこにいたんですけれども、家族がその当時、東京は戦災で焼けてしまって玉島に残しているわけなんで、早く帰ってきてこなければ困るというような事情で適当に逃げ出してしまって、芹沢先生に一番最初に怒られたわけです。最初のお叱りは、「帰っていいっていわないのに帰った。」と叱られた記憶がありますけれど、それが苦労のし始めです。

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