柚木沙弥郎　雑記帳

夢見る手
柚木沙弥郎とカーボランダム

益田祐作　

　「もの」を作るという行為においては、好奇の眼と童心への回帰と意志の夢想(註１)のはてに、いつも測り知れない明るい外界へと向かうことを、手が夢見、そそのかしてくれるのではないか。柚木沙弥郎の制作の現場に接し、版画のプレスの下から生まれでてくる「もの」を見ていると、こういう思いにかられる。　
　柚木沙弥郎がアトリエＭＭＧでこれまで取り組んできた｢版による表現｣は多岐にわたっている。リトグラフィ、モノタイプ、リノ・カット、ゴーフラージュ、謄写版、カーボランダム。これほど多くの版式を自在に使いこなし、独自の作品を作りだした作家は、日本では柚木以外にはいないだろうし、今後もでてこないだろう。しかし、これらの多種な表現は、いかに意欲的な作家といえども、孤独なひとりだけの作業で作りだすことは不可能だ。アトリエＭＭＧとの出会いがなければ生まれてこなかった。　
　アトリエＭＭＧは、パリのフェルナン・ムルロの工房と提携し、日本に本格的なリトグラフィの技術を定着させようとして活動を展開してきた工房だから、リトグラフィばかりを刷ってきたと思われるだろうが、そうではない。銅版画やシルクスクリーンは刷らないが、紙を支持体とする様々な版の技法を作家といっしょになって開発してきた。だから、これらを｢版画｣と呼ぶより、むしろ｢版的表現｣といった方がいいだろう。冒頭に｢版による表現｣と曖昧な言葉を使ったのは、こういう理由による。　技法というものは、頭のなかで考えて、技法だけを作りだすわけではない。これでは技法のための技法となり、そこから仮に作品が作られても、作品は痩せ、トリヴィアルな表現になってしまう。　
　作家が先にあっての技法なのだ。作家の観念と技法が完全に一致しなければならない。いいかえれば、技法と思想の調和なくしては、作家は何ものも表現しえない。
　日頃手慣れた技法から離れて、新しい表現をしたいと思う作家があり、この作家の想造力と工房の側の技術と熱意がぴったりと合致したとき、技法と使われる素材は別の活力をえて、生命ある形態へと結晶する。
　だから技法は、産業社会における企業秘密のようなものではない。外に向かって開かれていなければならない。｢工房｣とは、そういう開かれた技術を作家に提供する開かれた場であり、ここに作家がやってきて、技術者(印刷者)とインキまみれになって、一己の個性を超えた未知なる「もの」を作りだしてゆく。いってみれば、創造のユートピア。だから、分業ではない。共同作業なのだ。
　一手指せば、指しかえす。碁にどこか似ている。攻めたて、攻められ、画家と印刷者は、たがいに黒と白のひとつのコンポジションを出現させる。この緊密な相互交流の作業から思いもかけない形態が生まれだしてくる時の期待と興奮はなにものにも代えがたい。

　柚木沙弥郎は、染色家として｢型染め｣の技法を使い、｢民芸｣と呼ばれる量産と無名性を理想にかかげる｢用の美｣を目指す工芸家。
　こういういい方を柚木は嫌うだろうが、あえていえば、｢民芸｣の分野で一家をなした染色家。円熟の境地といわれても少しもおかしくない大家が、版画に開眼したのは、1995年アトリエＭＭＧで、インクと紙とプレスの力を借りてモノタイプを制作した時からだ。以来、柚木はこの工房にやってきて、リトグラフィのみならず、様々な技法と取組み、数多くの平面、レリーフ、立体作品を作っている。いずれも、先に書いた両者の幸福な出会いから産声をあげたものだ。
　画家の条件は、なによりも先ず、多作でなければならない。自らのうちに巣くう創造という魔者が、かたときも画家を同じところにはとどめてはおかない。絶えず手が動く。いま画家と書いたが、画家とか工芸家とかとわけて区別をしているのはおかしい。本来、自由であるべき芸術家が、自ら枠を作って仕事をしているのは、見る側が区別して評価しているからだろうか。こんな因習的な考え方などにとらわれず、柚木は仕事をしている。創造力のおもむくままに、どんどん作ってゆく。これが柚木の流儀なのだ。
　柚木の父・久太は島崎藤村の｢エトランゼ｣にも登場するように、パリに学び、後に官展を舞台に活躍した洋画家であった。
　柚木はめぐまれた芸術的な環境の中で育ち、大学で美学・美術史を学び、創作家を志し、芹沢銈介の工房で｢型染め｣に遭遇し、花開いた。父と同じ油絵の道に進まなかったことがさいわいした。明治以来の所謂｢純粋美術｣から絶縁した地点に立つことができたのだ。より自由な視野がひろがった。
　「染めものには違いないのですが、模様のついた布を作っているのです。」とかつて柚木は作品集のなかで書いている。この控えめな言葉は芹沢の磁力に引かれながらも、遠く離れ、｢民芸｣の枠からもはみ出してゆこうとする心境を物語っている(もっとも芹沢自体｢民芸｣で括ることのできない創作家であったが)。こういう柚木の膨張する創造力の行く先に、たまたまアトリエＭＭＧがあったと考えればいい。ここで柚木は多様な技法と出会い、創造の恍惚と開放を味わっただろう。
　こう見てくると柚木は挫折を知らない幸運にみちびかれた創作家なのだ。柚木の造形に独自性をあたえているのは、こういう育ちのよさに由来する知的なものと夢想的なものが少しも無理なく結合していることである。｢意志の夢想｣とはそういうことなのだ。　だからこそ、そこからは純粋さ、素朴さ、健やかさ、ほほえましさ、無垢、つまり自然と人間の調和が作りだすものの本質だけがもっている香りを発散するのだろう。
　柚木は今年の１月、ふたたびアトリエＭＭＧに現れ、カーボランダム版画に挑み、60点を越える作品を作った。この1月の間は、柚木にとって新しい発見と冒険の連続であったが、3月に33年間続いた活動を停止したアトリエＭＭＧにとっては、最後の仕事となった。こういう二重の意味で、作者と工房の記念すべき作品なのだ。　カーボランダム版画(Gravure au Carborundum)(註２)といっても、おそらくほとんど知られていないから、ここでどうしても技法について触れなければならない。しかし、技法を言葉で説明するのは大変むずかしいし、読む人にとって、これほど面白くないものはない。
　版画の版式は、版に使う材質によって分けられている。つまり、木版画、銅版画、石版画(リトグラフィ)。だからカーボランダム版画は、カーボランダムを使うことがわかる。
　カーボランダムとは｢炭化珪素｣のこと。Silicon Carbide(英)、Carbure de Silicium (仏)。カーボランダムという名称は商品名である。石英砂とコークスの混合物を電気炉で1800－1900度に加熱して作る。科学記号ではSIO2＋3C＝SIC＋2CO。こうして得られた物質は青黒色の粒子。きわめて硬い合成物質で、硬度がダイヤモンドに次いで高いので、研磨剤や切削工具に使われる。粒子は荒いものから細かいものまで用途によって様々な段階がある。
　制作者は、この物質と合成接着剤を混ぜあわせた膠質性の材料で、金属板(銅,ジンク,アルミニューム)、セルロイド、不燃性プラスチック板あるいは合板の上に、凹凸のレリーフを作る。加熱し、あるいは自然に硬化したら、この凹凸の表面に硬いブラッシでインクを付け、湿らせた紙を、この上にふせて、プレスで刷りあげる。この版式では、版の構造上、用紙もやわらかめの厚手のものが使われ、プレスの圧力によって、この紙が版に食いこんで、強い凹凸とインクの層の厚いニュアンスに富んだ効果が得られるのが特色である。
　このような版であるために、見当合わせで何色かを正確に刷り重ねることができない。したがって、使われる色彩インクはすべて版の凹凸の上にあたかも絵を描くようにブラッシで付け、一回のプレスで、紙に転移させる。複数の作品を刷り上げるためには、一回のプレスごとに、版にインクをつけてゆかなければならない。
　柚木の場合は、先ず工房の印刷者が細かい粒子のカーボランダムとボンド糊をまぜあわせた。これを柚木はペインティングナイフですくいとり、版の支持体となるアルミニューム板の上にレリーフの凹凸の形態を作り、印刷者がインクをつけ、ボロ紙で拭きとり、プレスで刷った。
　例えば、｢船｣の刷り上り全図と版のカーボランダムの分部を拡大したものを比べてみると、ある程度、カーボランダム版画の構造がわかるだろう。

刷り上げた作品｢船｣

版の部分の拡大

フランスの哲学者ガストン・バシュラールは、『物質と手』(1949年)と題するエッセイの冒頭に書いている。
　「彼にとって物質が存在する。そして、その物質は仕事をする彼の手のまさにその下にある。」(註３) 　
　至言である。木であれ、銅であれ、石であれ、ジンクであれ、版画はすべて物質から出発するが、カーボランダムほどこの言葉がぴったりくるものはない。彼とは、もちろん制作者。柚木は物質と向きあうところからはじまった。
　カーボランダムは、極度に強烈な物質性を発散する。だから、対象の再現性や描写の繊細さや精密さや線のスピードを求める作家ならば途中で投げだしてしまうだろう。
　絵画のようにイメージがあり、このイメージを素材を使って支持体(紙、キャンバス)の上に筆で描いてゆく行為ではない。いきなり物質との、おおげさにいえば、格闘があり、徐々にその物質のなかからイメージが開放されてゆくといったらいいだろう。その結果、刷りあがったものは、紙の凹凸や、厚いインクの層によって生じる強烈で深々としたマチエールを出現させ、見る人に迫る。
　物質は、柚木の夢見る手に、悪夢のように逆らい、自由な動きを阻害する。しかし、手は子供時代のあの泥いじりを思い出し、やがてなじみ、従順に物質に従ってゆく。と、物質の混沌のなかからイメージが、ゆっくりと湧きだし、形態を構築してゆく。この行為のプロセスは、決して盲目的な従順を意味していない。
　柚木沙弥郎の手は、1月末の15日間におよぶ楽しい戦いで、より強靭さを加えたことだろう。　　

註1.　｢意志の夢想｣という言葉は、ガストン・バシュラールのエッセイ『物質の手』から借用した。une reverie de la volonte の訳語である。なお、この稿のタイトルである「夢見る手」（la main reveuse）という言葉も、このエッセイのなかから借用した訳語である。　

註2.　カーボランダム版画の技法は、Henri Goetz,Gravure au Carborundum,Maeght editeur 1934を参照した。

註3.　Gaston Bachelard, Le droit de rever, p.67,Quadrige/Presse Universitaire de France 1970

「CRAFT SPACE わが本展での配布用資料として用意したものから借用」『禁転載』

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